コラム

※このページの印刷は、ご遠慮下さい。

感性アプローチによる「いきもの・ロボット」をデザインする

人目をひきつけるリアルマネキン

和装姿のリアルマネキン和装姿のリアルマネキン

マネキンは、19世紀末パリに生まれ、大正年間、洋装文化のひろがりとともに日本に輸入されてきた。19世紀末から20世紀初頭のパリのマネキンは、蝋人形館の見世物用人形同様に、実在の人間を超写実的に再現することによって人目を惹きつける役割を担った。一方日本でも、江戸末期から明治にかけて、「蝋人形」同様に人間を超写実的に再現した「生き人形」が、興行用に作られたが、映画の登場によって、人々の興味の対象が移行し、「生き人形」は飽きられ、興行は衰退の一途を辿り、やがて消滅した。

ところが、商業空間の発達に伴ってショーウインドーが設置されるようになると、そうした人形づくりの技術がディスプレイ用マネキンに応用された。ところが、蝋人形及び生き人形とマネキンは、人目を惹きつける点では共通しているものの、その用途において基本的な違いがあった。蝋人形や生き人形は、一旦服を着せたら脱がす必要はないが、マネキンは衣服を見せて売ることに主要な目的があるため、服の着脱が容易でなければならなかった。そのことは季節や流行によって変化する服を着こなし、どの服も素敵に見せることが出来る、ある意味では、人間以上の「能力」が、マネキンには求められることを意味している。

リアルなマネキンが登場した当初は、人間をありのままに再現することに主眼がおかれたが、20世紀初頭、芸術運動がパリを中心に拡がり、モードにも大きな影響を及ぼすようになると、人間の姿かたちを単にリアルに再現しただけでは人目を惹きつけないとの気運が高まり、芸術家のデッサンをもとに人間の身体を様式化、抽象化する創作性がクローズアップされた。

パリから日本にマネキンが渡ってきたのは第一次世界大戦後である。この時代、荻島安二をはじめとしたモダニズムを志向する芸術家たちが、京都の島津製作所標本部に端を発した日本初の洋装マネキンづくりに参加した。創業者であり彫刻家であった島津良蔵を中心とする作家グループは、実在の人間を模写することではなく、すべてイメージをもとにマネキンを創作。京人形づくりの伝統と、理想の人間の身体をイメージしつつ創作する造形感覚によって、日本独自のマネキンスタイルを確立したのである。

日本のマネキン企業の中で、島津マネキンの流れを色濃く継承してきた七彩は、1970年代、ポップアートの影響から、入間を生きたまま型取りし制作した一時代を除いて、すべてイメージで理想の身体美を創り出してきた。既製服のサイズに左右されることがなかった1970年代以前は、ボディ部分も極端に理想化された。例えば1960年代のマネキンは、ウエストが50センチ前後と、現実を超越した理想の身体美をデフォルメしている。それらは100パーセント、作家のイメージと造形力に委ねられた。現在は、既製服を着こなすことが条件となっているため、標準サイズの日本人の身体寸法をベースに、解剖学的知識を反映したリアルで美しい造形と理想のバランスを表しており、脚や首を長くするなどの理想化を図っている。但し顔は、日本人でも欧米人でもない、現代感覚を感じさせる日本人が好む「かわいさ」を、イメージで創作している。

さて、こうした変遷を辿ってきたマネキンだが、特に「かわいい!」と現代の若い女性の感覚を刺激するのは、どの時代のマネキンだろうか。それは、必ずしも現代のものとは限らず、100パーセント作家のイメージと造形力で創られた1970年代以前の創作性の強いマネキンだ。それは「女性的でキュート」と言った表現が相応しいタイプである。この世に生まれて30年〜40年も経過した、言わば過去の存在となってしまったマネキンが、現代の人々の感性を捉えている点が興味深い。比較的最近の例では、七彩のマネキン作家加野正浩氏が1985年に発表した「REY」シリーズであろう。このマネキンは、20年近い年月を経過した今も第一線で活躍している驚異的ロングセラーマネキンである。「中性的でチャーミング」なイメージのこのマネキンが、長く生き続けて来られた要因は、二ーズの多様化、時代感覚の変化に対して、人がこのマネキンに投影するイメージを見事に受け止めてきたことにある。これこそものに託された「生命力の強さ」と言えるだろう。欧米のリアルマネキンが、生きた人間を模写し作られることが一般的であるのに対し、古くは京人形づくりの伝統、それをアートと結びつけた島津マネキン以来の創作的伝統が、「かわいい」と言われる親和性を生み、人との関係性を深め持続させる、創造性豊かな「いきもの」としての日本型マネキンを確立したのである。

著者: 京都造形芸術大学 ものづくり総合研究センター 主任研究員 藤井秀雪
※この文章は京都造形芸術大学紀要「GENESIS」第9号に研究ノートとして発表したものの転載です。