コラム

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マネキンのリアリティを考える 戦後日本のマネキンの流れを通して

低成長期のマネキン

超リアルなマネキンを発表

1971年(昭和46年)の七彩展に、実際の人間を全身型取りして作られた一体の人体像が出品された。生体を型取りする従来の技術と、この人体像の決定的な違いは、顔の型を取る際、眼を開いたまま数十秒で型取りが可能なことであった。しかも、瞳孔の膨らみまで忠実に再現出来た。同じ年、この技術をアート表現に生かした風変わりな展覧会「視覚の錯覚展」を都内の百貨店で開き、センセーションを巻き起こした。さらに一九七四年の「日本国際美術展」に、七彩グループ「1971年3月29日」と題した、アトリエの作家達全員が型取られ、凝固してしまったような作品を出品、現代美術関係者から高い評価を得た。

図版
(図版5)

この型取り技術をマネキンに応用し発表したのは1974年(昭和49年)の七彩展であった。まるでそこに生きた人間が存在するかのような超リアルなマネキンは、来場者に大きな衝撃を与えた。(図版5)

このマネキンのモデルになった女性達は、原宿でスカウトしたごく普通の人たちであった。顔かたちは本人そのままで、ペーパーで磨かず、皮膚のきめを残した。肌の色も極力本人に近づけ、リアルさを強調した。身体はやや脚を長くし理想化した。翌年からは、プロのモデルを型取りしてマネキンを制作。この方式で10年間リアルマネキンを発表し続けた。それまでイメージでマネキンを作ってきた作家だったが、実在する人間を型取りしてマネキン化する作業は、時間の経過とともにイメージで作る以上に困難さを伴うことが明らかとなった。それは、マネキンに相応しい顔のモデルを見つけ出すことの困難さであった。作家がイメージで制作するマネキンの顔は、ほぼ完壁に整っているが、現実の人間は、化粧で誤魔化していたり、左右非対称であったりする。そこで型取りした顔は、より良い顔を作る前段階と考えるようになり修整を余儀なくされた。そしてとうとう、創造力に依拠した方が、イメージ通りの顔が作れることに気付き、1983年以降は、型取り方式でリアルマネキンを作ることはなくなり、本来の作り方に戻された。

1975年以降のリアルマネキン

1975年(昭和50年)は、戦後生まれが人口の過半数を突破した年であった。この戦後世代をニューファミリーと称し、新しい価値観のもとに生活する層をターゲットにした売場展開が、東京の百貨店を皮切りに全国に拡がった。空間全体を劇場と見立て、エキサイティングでファッション性の高い空間演出によって、人目をひき付けようとした。それぞれの売場も、単に商品を羅列するのではなく、新しい生活シーンやファッションのトータルコーディネートをビジュアルに提案することを重視した。そこで大活躍したのが、まるでそこに人間が存在しているかのような臨場感の演出が可能なマネキンだった。一九六〇年代のような圧倒的な数のマネキンは影を潜め、数は限定されるようになったものの、リアルマネキンのクオリティは次第に高まりを見せていった。一九七〇年代後半になると、ファッションイメージに合わせた肌の色やヘアメークは半ば常識となり、八十年代になると人毛に近いしなやかな素材でカツラが作られた。このようにリアルマネキンは、店やブランドイメージの他との差異化を図るともに、ファッションイメージのトータルな演出により、販売促進効果を高めるツールとして活躍した。この時代、海外ブランドのリアルマネキンが国内市場を制覇し始めた。この傾向は、バブル崩壊以降の海外ブランドの浸透とともに広がりを見せた。

バブル期におけるデザイナーズブランドのマネキン

1980年代初頭、ファッションの世界で、日本のデザイナーのブランドが台頭した。個性的な服をインパクトの強いショップ空間に展開。長めのハンガーバーと棚、大きめの平台がお決まりの構成であった。当時のデザイナーズブランドの衣服は平面性を特徴としていたことから、たたんで見せる、広げて見せることがある意味で理にかなっていたのである。問題のマネキンだが、このタイプの店では、ほぼ完璧にマネキンは不要とされた。マネキンに替わって、ハウスマヌカンと呼ばれる販売員が、そのブランドの最新の服を着て接客に当たった。百貨店では、リアルマネキンが生き生きとした空間演出に活躍していたが、ファッションの先端を行くショップは、マネキンを使わないとの風評が広がり、その影響は軽視することが出来なかった。

図版
(図版6 撮影:筆者)

こうした最中の1982年(昭和57年)、東京飯倉にラフォーレミュージアムがオープンし、その柿落としに、「イッセイミヤケビデオパフォーマンス」が開催された。空間には、全身おが屑を付着させた七彩の廃棄マネキンが多数配置された。それは、誰も眼にしたことがないアート感覚あふれる、極めて斬新なマネキンと空間の出会いであった。イッセイ・ミヤケは、翌年五月に同じ空間の全面オープンを記念して、「スペクタクル・ボディワークス」を開催。その空間のために七彩は、弾力性のある皮膚感を持ったシリコンゴム製と半透明プラスチック製の二種のマネキンを、技術開発レベルから取り組み見事に完成させた。サウンドとライティング、映像が融合する空間に「人体ボディ」と銘打った洗練された肉体美を造形化したマネキンが、イッセイ・ミヤケのコスチュームを引き立たせた。このイベントは、その後海外を巡回し、ファッションショーや従来のマネキンディスプレイに慣れた人々の概念を、根底から覆す出来事として称賛されたのであった。(図版6)

これを契機にデザイナーやクリエーターの間で、アート指向のマネキンを独自に制作し、ショップやイベント空間に融合させる試みが盛んになった。以降10年間に作られた主要な事例を列記したい。ヨーガン・レールブティックの日本人をモデルにしたマネキン(1985年)、「毛利の服」展の頭部と手先が透明アクリル製で、頭部が水槽になっているマネキン(1986年)、「イッセイ・ミヤケハート」展の全身のフォルムが金綱で作られたマネキン(1986年)、ニューヨークFIT主催「スリーウーマン」展における川久保玲の楮製紙製マネキン(1987年)、トキオ・クマガイのショップ用青銅仕上げのマネキン(1987年)、パリ装飾美術館で開催されたイッセイ・ミヤケ「A・UN」展のための金属製ワイヤーマネキン「フォルム」(1988年)、コム・デ・ギャルソンブティックのための吊り下げ型半透明マネキン(1989年)、姫路市立美術館で開催された「KENZO展」のためのワイヤーマネキン(1989年)、イッセイ・ミヤケパリブティックのためのオカリナ風マネキン(1989年)、イッセイ・ミヤケ「プランテーション」ブティックのためのユニット型抽象マネキン(1989年)、イッセイニミヤケ「ツイスト」展のための透明マネキン(1991年)、コム・デ・ギャルソントリコブティックのための半透明マネキン(1991年)、国立国際美術館で開催された「現代のジャワ更紗展」のための木彫マネキン(1993年)。この10年間、これらの他にも、ファッションデザイナーと七彩のコラボレーションによる、多彩でオリジナリティ溢れるマネキンを制作している。この一連の出来事は、芸術運動の影響下で、アーチストによる抽象マネキンが登場した、20世紀初頭のパリを想起させるものがある。この中で大きな役割を果たしたのは、マネキンのデザインに独自性を発揮した当時のイッセイ・ミヤケのアートディレクターであった毛利臣男と、新たな素材のマネキン制作に取り組んだ、大野木啓人を中心とした七彩の造形技術陣であった。

こうした一連のクリエーションは、ファッションと身体、身体と空間の新たな関係を創出し、マネキンの可能性を導き出す世界的な出来事であった。しかし、この流れを作り出した背景に、経済的な要因が色濃く関係していたことが、バブル崩壊後の自体によって実証されたのである。

著者: 京都造形芸術大学 ものづくり総合研究センター 主任研究員 藤井秀雪
※この文章は日本人形玩具学会「人形玩具研究 かたち・あそび」第18号 2008 年3月に発表したものの転載です。
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