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「マネキンの価値とは何か」を生き方を通して表現した人
村井次郎(むらい・じろう) | |
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1904年(明治37年) | 京都生まれ |
1928年(昭和3年) | 東京美術学校(現・東京芸術大学)塑像科卒業 |
1930年(昭和5年) | 島津マネキン傘下に入りマネキン制作に関わる |
1946年(昭和21年) | (有)七彩工芸入社・取締役 |
1947年(昭和22年) | 七彩工芸の第2号マネキン発表、以後ヒットマネキンを創作 |
1950年(昭和25年) | (株)七彩工芸、取締役 |
1952年(昭和27年) | 走泥社同人となる |
1955年(昭和30年) | 名作FW-117を発表 |
1963年(昭和38年) | (株)七彩工芸の創作技術部門の東京集結により東京常駐役員 |
1971年(昭和46年) | 七彩工芸・取締役を退任 相談役として後進の育成に努める |
1982年(昭和57年) | 死去。享年78歳 |
右:1950年代のヒットマネキンとなった名作“FW117”
左:1935年(戦前)の作品
1955年(昭和30年)、七彩工芸(現・七彩)の新作展で発表された婦人マネキン「FW117」は、同年の生産体数が1,650体という脅威的なヒットとなった。この日本的なエレガンスとダンディズムに溢れ、多くのファンを生み出したマネキンの原型作家が、村井次郎であった。
村井は、1904年(明治37年)に京都で生まれ、東京美術学校(現・東京芸大)の塑像科を1928年(昭和3年)に卒業した後、二年ほど経てから、島津マネキンで荻島安二氏等とともにマネキン制作に関わりはじめた。以来、戦後の七彩工芸での活動も含めて、78歳で1982年(昭和57年)に他界するまで、半世紀にわたって村井の足跡はマネキンと共にあった。
村井がマネキン創造において圧倒的パワーを発揮したのは、素材がファイバーからFRPに移行するまでの10年間である。1947年(昭和22年)に七彩工芸に加わって初のマネキンを発表して以来、この時代の七彩工芸のマネキン原型は、そのほとんどが村井と向井良吉氏によって作られたが、そのうち70%は村井の作品であった。村井は年間平均で14〜15種を制作した。
今日では5〜6体で1シリーズを同一キャラクターで構成しているが、当時は基本的に一体完結であったから、その創造力の豊かさは今日の常識では計り知れないものがある。生産の技術的側面で40年以上関わってきた脇田隆次氏によると、村井は「取り組む姿を見せないままに、三日ぐらいで迷いなく作ってしまう人だった」という。
その原型は「ディテールにこだわらず、ほとばしる生命感をそのままぶつけるかのような荒々しさに満ちていた。」そのかわり製品化の段階では「原型に内在する本質を消し去ることなく表出させることを、職人らに求めた。」常に自ら現場で職人と一体となって、原型創造の際に描いたイメージという骨格を、寸分の違いも見逃すことなく貫き通した。
村井はまた、七彩工芸に参加すると同時に取締役となり、1971年(昭和46年)に退任するまで、経営陣の一人であった。その間、若い作家や技術陣の精神的支柱となり、死後十数年を経た今日でも、村井のマネキンづくりへのこだわり、手で作るという基本への執着は、人それぞれの胸に、思いの丈の深さを宿している。
村井の最後のマネキンは、亡くなった年に発表された抽象マネキン三体であった。村井の生き方は「マネキンの価値とは何か」を、改めて今日の我々に問いかけているようだ。
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