マネキンの全て

※このページの印刷は、ご遠慮下さい。

マネキンのすべて

マネキンの誘惑

わたしたちの生きている社会というのは、人びとにだれかであることを強要する社会だ。だれであるか曖昧であるということは、わたしたちの社会では許されない。

わたしたちは子供のころから、大きくなったら何になりたいか、結婚したらどんな家庭をもちたいか、どんな父親になりたいか、などといった質問を、おとなたちからくりかえし向けられてきた。こういう問いをつうじてわたしたちに要求されているのは、わたしたちがつねにだれかでなければならないということ、つまりアイデンティティの自己提示である。男か女か、おとなか子どもか・・・・・わたしたちはそのどちらかでなければならないのであって、どっちつかずでいること、つまり正体が不明であることがいちばん困ると、つねに社会から無言の圧力をかけられてきたのだ。

ゴンブローヴィッチの『フェルディドゥルケ』(米川和夫訳)のなかにこんなシーンがある。

「ねえ、ユーゼフや」、
モゴモゴとモゴモゴの合間におばさんがたはこう言うのだ。

「ものにはね、切りというものがありますよ。世間の口だってありますからね。もしお医者になりたくないというのなら、せめてものこと、女たらしか、馬気違いにでもなれないの?ただね、こう、はっきりしてもらわなければ・・・はっきりと・・・」

最終的にはだれでもいいから、とにかくだれかになれというわけだ。いったい何を考えているのかわからず、何者であるかが不明であるということを許さない社会は、言葉を代えて言えば、顔を隠すことを許さない社会、たえずだれかとして自己表明することを強制する社会なのである。

「じぶんらしさ」の強要、それは地下鉄のなかのファッション雑誌の吊り広告でおなじみのものだ。じぶんがだれかよくわからないままに、じぶんらしくあることにこだわる。皮肉な言い方をすると、みんな何かの社会的な意味に憑かれなさいというわけだ。おとなになるための「教育」とは、その意味でみな基本的にはこの社会の成員になるための「集団洗脳」のことなのである。ファッション・ディスプレイや広告コピーはそれを煽る。

マネキンは、そういうディスプレイの一部としてそれを構成しながら、同時にそこにひそかに孔を空けてもいる。社会的な意味やイメージにとり憑かれたそういう身体の表面のすきまに、かすかな空隙をつくりだす。だれのものでもない無名の〈顔〉、未だ社会的な「わたし」の顔として限定されていない没表情が、からだの表面によぎるのである。

マネキンの顔を見てみると、当たりまえと言えば当たりまえのことなのだが、だれかでなければならないというオブセッション(強迫観念)が、そこからきれいに脱落していることがわかる。そのぶん見ようによっては、マネキンの顔ははじめこそ何か異様に感じられるが、じっと見ていると逆に人間の顔よりもはるかに穏やかに見えてくることがある。

それは、わたしたちが時代のなかでほぼ習慣的に抱くようになっているステレオタイプの身体イメージであると同時に、他方でわたしたちの無意識を引きずりだしもするのだ。わたしよりももっと古いわたし、わたしの、名をもたぬ無名の基底であるような存在次元を、まるで幽霊のようにふっと浮かび上がらせもするのである。それは、アンソールやキリコが、面のように類型化された群衆の顔や、のっぺらぼうに陥没した顔たちの無名の風景をつうじて浮かび上がらせていたものである。

表情以外にさらにもう一点、マネキンに特徴的なことは、頭のてっぺんから足の爪先まで、その表面のテクスチュアがモノトナスであり均質的であるということだ。人間のからだにはふつう地勢図のような線が描かれているのであって、身体じゅういたるところがそれぞれに価値づけされているのに対し、マネキンのボディにはそういう価値づけがなされていず、すべての場所が等価である。もう少し具体的に言うと、だれかという人格を考えるとき、わたしたちは顔面に圧倒的な価値を置いている。人格が顔面に収歛しているのだ。

あるいはまた、欲望というものは、何も生殖器官のある場所にあるわけでもないのに、わたしたちの観念のなかでは、欲望は生殖器に集中し、いわゆる性感帯を駆けめぐるかのようにおもわれている。服を着るとその差異性は一気に増殖・拡大する。布きれ一枚で覆うだけでも、身体の表面にさまざまな差異が発生するのである。たとえば布きれで覆われている部分はプライヴェートな身体として、露出している部分はパブリックな身体として差異化される。

本来、空間的な局所化になじまない意味をこのように身体の表面に、見えないかたちで、あるいは見えるかたちで書き込むこと、それは人間にとってもっとも原初的なフェティシズムの一つだとおもわれる。そしてこのフェティシズムをそっくり解除・脱落させたのっぺらぼうの身体こそ、マネキンのボディなのだろう。マネキンにおいては、頭も、胸も、腹も、脚も、膝も、すべてが等価だ。それが、もうそんな意味にこだわることもやめなさい、という潜在的メッセージを発する。そのことがわたしたちに、底知れぬ穏やかさの印象を与えるのではないだろうか。そして、もはやだれかであることをやめてからのじぶんというものへ、わたしたちの想像力を引っ張っていってくれる媒体になりうるのではないだろうか。

もちろん、こういう曖昧さは物騒なものである。その存在を匿名化することで、市民としての生活のいろんな規範を緩めてしまうのだから、かなり危なっかしい可能性ではある。そういう危険な可能性が、マネキンのおぞましさを構成する。おぞましさと安らかさ、この対立するものの共存、対立する意味の揺れ、それがマネキンの誘惑の核をなしている。

マネキンのもう一つの特質、《ヴァルネラビリティ》についてはどうか。マネキンはどういう意味でヴァルネラブルなのか。マネキンをじっと見ていると、どことなく攻撃的な怪しい気分になってくるのはなぜか。

それは、マネキンが人間そっくりでありながら意識をもたないので、まるで物体のようにどうにでも意のままに処理できるからではないだろうか。意のままに処理できるということ、これは何かを所有することの本質だ。マネキンの怪しさはその意味で、他人を疑似的に所有するわたしたちの欲望を映しだしていると言ってもいい。

マネキンは、床にひっくり返すこともできるし、腕を外すこともできるし、胴体と頭を逆向きにすることもできる。そういう意味で、マネキンというのは何かわれわれのなかの攻撃性を誘発させる。あるいはそういう内なる攻撃性に、わたしたちを直視させる。マネキンはオブジェのように、ゴロンと転がしてもてあそぶ、一種の攻撃性というものを刺激する危なっかしいものなのだ。ハンス・ベルメールの人形がそういう攻撃性をみごとに形象化している。

と同時に、わたしたちはそういう危なっかしいマネキンにじぶんじしんを同一化し、そうすることでじぶんじしんの傷つきやすさに直面する。じぶんの存在が今度はマネキンのようになり、そしてそういうじぶんをほかならぬじぶんが傷つけているという、そういうサイコ・ドラマが、マネキンをじっと見つめているうちに発生しはじめる。マネキンには、わたしたちのなかにある攻撃性を誘発すると同時に、じぶんじしんをその攻撃性のターゲットにするという一種の自虐性へとそれを転換していく、そういう怖い心理状態へとわたしたちを誘うところがあるらしいのである。それが、マネキンの漂わせるあやしさの秘密である。

これは、じぶんのなかにあってじぶんではどうにもコントロールできないような動性に身を委ねてしまいたいという誘惑ではないか、と考えられる。恋愛というのもそうした衝動の一つだ。異性とののっぴきならない関係にじぶんを巻き込むことによって、巻き込まれたじぶんをそのなかで無理やりに変えてしまう、そういう事態への誘いが、わたしたちのなかには欲望としてあるのではないか。

そういう意味で、マネキンを見ているときの胸苦しさのなかには、じぶんがコントロール不可能なものになる、あるいはじぶんの内部のある制御不可能なものによってじぶんが翻弄される、そういう事態への誘惑が見いだされる。

この無力さ、あるいはヴァルネラビリティ(傷つきやすさ、攻撃誘発性)という、わたしたちの存在の原型とでもいうべきものを、わたしたちはマネキンという形象に感じてしまうのだ。集団ではなく、一対一で人間がマネキンの前に向き合ったときの、そのどうしようもない胸苦しさというのは、たぶんそういうところからきているようにおもわれる。

マネキンは、「わたしよりももっと古いわたし」へとわたしたちの視線を連れ戻す。そして、消去された可能性、抑止された可能性をも同時に浮上させる。そうでありえたかもしれない《別の世界》を、わたしたちの日常の光景のなかに突如出現させるのだ。そういう意味で、マネキンは社会とその外部の境界に位置するものである。