コラム

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マネキンのリアリティを考える 戦後日本のマネキンの流れを通して

日本のマネキンの源流

1960年代のリアルマネキン(義眼つき)
島津マネキン
1940年代:吉村勲作/衣装:藤川延子

戦後の流れを紐解く前に、その源流について簡単に触れる。

わが国では明治後期から大正前期にかけて、極めて限定的に、和服用の人形が店頭に登場する一方で、パリから輸入された、洋服を着せて見せるマネキンがショーウインドを飾った。
本格的なマネキン時代の到来は、1925年(大正14年)、京都の島津マネキンの創業と、生き人形師三代安本亀八が銀座松屋開店に際し、100体の生き人形を制作したことに端を発する。
なかでも島津マネキンは、モダニズムと洋装文化の広がりの中で、荻島安二をはじめとした新進気鋭の芸術家と京都の職人によって、日本的な美意識を投影した、洋装にも和装にも対応出来るリアルマネキンを独自の製法によって開発。その後の日本マネキン史に大きな影響を与えた。

島津マネキンは、1934年(昭和九年)に、従業員200余人、年生産五千体に到達、国内における圧倒的なシェアとともに、海外に輸出するなど隆盛を極めた。
1943年(昭和18年)、第二次世界大戦の激化により操業停止を余儀なくされたが、島津マネキンに関わった芸術家と職人を中心に、戦後いち早くマネキン企業の七彩・吉忠・ヤマトの三社が京都に創業した。
また京都以外の都市でも、戦前和装マネキンを手がけていたマネキン企業が相次いで再興した。

著者: 京都造形芸術大学 ものづくり総合研究センター 主任研究員 藤井秀雪
※この文章は日本人形玩具学会「人形玩具研究 かたち・あそび」第18号 2008 年3月に発表したものの転載です。