マネキンの全て

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日本のマネキン 〜人と作品〜

名人伝/その人作品

島津良蔵 SHIMAZU Ryozo

生涯をマネキン産業の将来に賭けた国産洋装マネキンの生みの親

 
島津良蔵(しまづ・りょうぞう)
1901年(明治34年) 島津製作所の創立者・島津源蔵氏の長男として京都に生まれる
1925年(大正14年) 東京美術学校(現・東京芸大)卒業。島津製作所に入社。
マネキン製造販売を開始と同時に担当者となる。
1926年(大正15年) 京都師団砲兵隊に、一年志願兵として入隊 
1928年(昭和3年) ファイバー製洋マネキンの開発と量産化に成功
1937年(昭和12年) 島津マネキンの最盛期。マネキン作家&事業家として活躍
1946年(昭和21年) (有)七彩工芸の創業に参加し、取締役に就任
1947年(昭和22年) 最後の婦人マネキン制作 
1948年(昭和23年) 京都科学標本(株)の社長に就任。1962年には会長となる。
1954年(昭和37年) (株)七彩工芸・会長に就任 
1970年(昭和45年) 死去。享年69歳


右:裸婦/製作年月日不詳
左:1938年(昭和13年) 島津良蔵のマネキン

島津良蔵といえば、わが国初のマネキン企業・島津マネキンの創始者であり、戦後は向井良吉と共に七彩工芸(現・七彩)の創業に参加した、生涯をマネキンへの熱き情熱と深い愛情で貫き通した、マネキン作家であり経営者であった。日本のマネキン業界の成り立ちを考えるとき、島津の存在と功績を抜きにしては語れない人物である。

島津良蔵は、島津製作所の創立者・島津源蔵の長男として京都に生まれた。東京美術学校(現・東京芸大)で彫刻を学び、卒業と同時に島津製作所に入社、標本部に籍を置いた。この年、マネキンの製造販売を同社標本部で行うことが正式決定し、良蔵が担当者に選任される。

当時の日本はまだ和装が中心で洋服についての情報や知識も乏しく、洋装マネキンの開発は至難の業であった。しかし良蔵は時代を捉える鋭い先見性と、マネキンに対する深いこだわりをもって、マネキンの制作と拡販に情熱を注いだ。

1933年(昭和8年)頃、大丸京都店の宣伝部に在籍していた浅野亨氏は、「島津良蔵追悼文集」の中で、初対面の時に良蔵が熱っぽくマネキン産業の将来性について語ったことを紹介している。「こんな泥をこね回して何が面白いかと思われるでしょうな」「しかしこれから10年、20年先には、この島津マネキンが全国のデパートや洋装店の飾り窓を飾るようになりまっせ」等々。

実際に1931年(昭和6年)に起きた白木屋(東京)の火災を契機に、洋服の需要は高まりを見せはじめ、洋装マネキンも次第に普及していった。良蔵はファッションに夢を与えるこの仕事をライフワークと考え、マネキンも単なる人形の類ではなく、芸術性を高めるよう努力を重ねていった。

良蔵の下で営業に携わってきた七彩の蔦清氏によると、良蔵が作るマネキンは「見て楽しめる造形性芸術性の高いもので、それに一品作りの優雅性がミックスされて、ほのぼのとした人間味」を感じさせるものであった。そこには良蔵のダンディズム―音楽を好み、ピアノやチェロを自ら演奏し、服装も個性的で凝っていた等々―と人柄が、色濃く反映されていたようだ。

戦後は、1946年(昭和21年)に七彩工芸の創業に参加して取締役に就任し、1954年(昭和29年)から逝去された1970年(昭和45年)までの16年間、会長職を勤めた。晩年は現在の七彩の社屋内に作られた良蔵のためのアトリエで、粘土を手に彫刻を楽しむことに余念がなかった。そして旧知の人の来訪を非常に喜び、島津マネキン時代の思い出話に花を咲かせた。