マネキンの全て

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マネキンのすべて

日本のマネキン 〜人と作品〜

名人伝/その人作品

藤林重治 FUJIBAYASHI Shigeharu

偶然に入ったマネキンの道で最後まで創作意欲に燃えた

 
藤林重治(ふじばやし・しげはる)
1904年(明治37年) 生まれ
関西美術院に学ぶ
京都彫刻研究所で松田尚之氏に師事
島津マネキンで原型作家として活動
1948年(昭和23年) 二科展入選
1949年(昭和24年) 兄(故藤林重高)経営の大和製作所=現(株)ヤマトマネキン
の創立に協力、原型作家として活動
1952年(昭和27年) 二科展特待賞
1955年(昭和30年) 二科展会友推挙
1959年(昭和34年) 渡仏、ザッキンに師事
1960年(昭和35年) 取締役に就任
1967年(昭和42年) 京展・彫刻部審査員
1970年(昭和45年) 常務取締役に就任
1983年(昭和58年) 信楽で陶器の個展
1991年(平成3年) 永眠(享年87歳)

日本のマネキン草創期に共に原型作家として活動した吉村勲氏は、先輩の故藤林重治に最初は指導を受け「当時の作家たちの中でもっとも強く記憶に残っている人」といっている。藤林は島津製作所に入社し、その後マネキン部(島津マネキン)が出来て転任してから、マネキン原型作家としての道を歩むことになった。

藤林が入社した頃の島津製作所は産業機器を主に製作しており、藤林は模型を作る職場に回された。模型づくりには彫塑力が必要である。そこで彼は夜間に関西美術院に通って勉強を始めた。ここは同好の士が集まって先生を東京から呼んで学ぶといった、クラブ組織の塾のような学校であった。その後、先生の松田尚之氏が京都に移ってきて京都彫刻研究所を始めたので、ここに入った。

模型づくりの基本として習った彫塑が一生の仕事となったわけだが、その彫塑はマネキン部ができて配属されると、マネキン原型作家として生かされることになった。

第二次世界大戦が始まると、マネキン製作の技術が鋳造の技術者として徴用され、満州へ渡った。その間にマネキン制作には軍部から禁止令が出され(昭和18年)、終戦によって元の職場に戻った時には、もうマネキンの制作は廃止されていた。

昭和23年に兄の藤林重高氏が大和製作所というマネキン制作会社を設立した。現在の(株)ヤマトマネキンである。翌年から藤林は参加して、原型作家として活動を再開した。昭和34年から35年にかけては、パリに10カ月留学。オシップ・ザッキンに師事して彫塑の勉強を深めるとともに、パリから色彩のハーモニーを学びとった。

藤林は友情が厚く、交友を大切にしていたようだ。このパリ留学の時は、彫刻研究所に通っていた頃の後輩・山本恪二氏が一足先に渡仏していて、山本氏はボザールに通い、藤林はグランショーミエール研究所でザッキンの教えを受け、パリで交遊を深めている。そしてヤマトマネキンを勇退した晩年は、山本氏のアトリエへ通って、若い創作者たちと一緒に彫塑に倒れる一週間前まで打ち込んでいた。同じ職場で働いた吉村氏の言葉にも藤林への記憶がもっとも強く残っている。

藤林は70歳を過ぎてから陶芸にも関心を持って花器や裸像などを創作し、信楽の友人の窯で焼いてもらっていた。そして昭和58年には信楽の陶園ギャラリーで個展を開いている。この時の藤林は87歳。亡くなる間際まで創作意欲の衰えない人だった。