マネキンの全て

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マネキンのすべて

マネキンの数奇なる歴史

はじめに

20世紀において、商業活動の道具として急速に拡がりを見せたマネキンは、美術品とは異なり、時代とともに生まれて、時代とともに廃棄される、はかない運命を辿ってきました。マネキン作家といわれる人々が、その時代の「表現者」としての偶像を、深い思いを込めて作り上げているその瞬間に、同じ作家がかつて思いを込めて作ったマネキンたちが、無残な姿をさらけだし、今日では産業廃棄物処埋業者によって、粉末にされ捨てられているのです。

1920年代のパリでは、マネキンは装飾芸術の域にまで高められ、魅惑的な空間を創造する重要な要素でした。日本においても、同じ1920年代半ば、江戸末期からの生き人形の流れがヨーロッパからの流れと合流して、和装・洋装という日本独自のマネキン世界を生み出しました。

マネキンは洋の東西を問わず、いつの時代にも人間の心の奥に潜む、美への憧れを投影した偶像であり続けました。時代は変わっても人間が偶像を必要とする以上、マネキンは再生されました。人間が夢や憧れを抱くことを容赦なく否定する戦時体制下において、いったんその“生命”が断たれたかに見えましたが、再び平和を取りした時の、再生力は、目を見張るものがありました。

人間が装うということや、美しく魅力的であろうとする行為は、食べることや住む場所と同じくらい大切であることを、歴史は証明してくれました。日本のマネキン業界は、戦後の荒廃した都市に、マネキンの再生をイメージした人々によって見事に復活し、その後半世紀の時を刻んできました。

今回の記念誌をまとめるに当たって、編纂委員会では広く組合員企業から、歴史を紐解く資料の提出を要請しました。これまで闇の彼方に隠れていた歴史的事実が、保存されていた貴重な資料や証言によって明らかになりました。もちろん客観的事実を正確に反影していない記述が、後世に残される恐れがないわけではありません。

しかし、今わかっている事実だけでも記録しなければ、日本のマネキン業界の起源や成立の過程が証明できなくなるという危機感が支えとなり、まとめの作業を前へ進めました。時間があれば、もっと豊富な資料が収集できたかもしれませんが、より正確で詳細な解明は後世に委ねることにいたします。

そのためにも、今回の経験を出発点として、各組合員企業において、自社の歴史やマネキン史への関心が高まることを、心より期待するものです。

ここで展開した歴史は、大きく三つの流れに分けて紐解きました。

  1. ヨーロッパからの流れ
  2. 日本からの流れ
  3. 日本のマネキン企業の起源および成立と再生の過程

ヨーロッパ史のほとんどは、1981年にパリで発行された「MANNEQUINS」(絶版)からの引用によるものです。その文章は雑誌「夜想」31号“マヌカン”(1993年1月発行・ペヨトル工房刊)にマネキンの歴史を執筆した編纂委員の藤井秀雪が、その時の原稿に若干の手を加えてまとめたものです。

なお日本からの流れの項も、「夜想」掲載の木下直之氏の論文“マネキン以前・生き人形以後”等を参考にまとめました。

ヨーロッパの流れ 日本の流れ
1849年 プロフェッサー・ラヴィーニュが完璧に近い上半身マネキンを開発。貿易産業博覧会でメダル獲得。    
1854年   生き人形師・松本喜三郎が大阪難波新地で、「鎮西八郎島回り」興行で空前の大入り 安政元年
1857年   安本善蔵と息子の亀八(初代・安本亀八)「いろはにほへと」の文字の人形化。
「浮世見立て48癖」人間の癖の人形化。
安政4年
1869年 「ストックマン・フレール・ビュスト&マヌカン会社」設立。    
1870年 (1878年以降、ロンドン、モスクワ、シカゴ、アムステルダム、ブリュッセル、ハノイなどの世界各都市で大成功をおさめる) 安本亀八「東海道五十三次道中生き人形」を興行
(1875年=明治8年以降、東京に興行の場を移す)
明治3年
1879年   松本喜三郎一世一代の傑作「西国巡礼三十三カ所観音霊験記」を大阪千日前で興行 明治12年
1900年 パリ万博でピェール・イマン「解剖学的蝋製上半身像」を発表 新興のパノラマ館や映画館に食われ、生き人形展衰退。
三代目・亀八がディスプレイに活路を見い出す
(1904年=明治37年のセントルイス万博、1907年=明治40年の日英博覧会などのために、多くの等身大人形を制作)
明治33年
1910年   三代目亀八が伊勢丹、白木屋、松屋等の百貨店で、ウインドー用人形の制作と関わる。 明治43年
1911年 トリノ博で、ピェール・イマン「関節付きの腕を持つ衣服の着脱可能なマネキン」を発表 フランスより蝋製マネキンの輸入が始まる  
1914年 第一次世界大戦勃発
メゾン・シェジェルがフランスモードを代表するマネキンとして注目され、従業員100名の規模に成長。
日本を含む各国に輸出
   
1922年 ギャラリー・ラファイエットの経宮者ジェローム・ル・マレシャルに選ばれた若き芸術家ヤニ・パリが「面によって様式化したマネキン」を発表
ルネ・エルプストが板マネキンを考案
ピェール・イマンのアトリエで“カルネジール”という蝋より軽くしなやかな素材を開発
   
1924年 アンドレ・ヴィニヨーが、画家たちのデッサンをマネキン化(半透明の蝋を使用)    
1925年 「現代装飾・産業美術国際博覧会」開催
フォルムを様式化した、まったく新しいマネキン登場の場となった。素材も蝋ではなく、空洞で軽く、堅牢なカルトンを使用。人間の単なる模倣から脱却し、マネキンそれ自体を「装飾」と位置づけるまで到達
京都にわが国最初のマネキン企業・島津マネキン誕生
三代目亀八が、銀座松屋開店を記念するディスプレイ用に100体人形を制作=歌舞伎役者、芸妓、女優の人形
その後、松屋は「陸軍展」「結婚風俗展」「日本舞踊展」「鎧式正飾展覧会」のために、100体近い人形の制作を亀八に依頼。
大正14年
1927年   堀兵馬、芦屋に京屋人形店開店 昭和2年
1928年   堀平馬(兵馬の兄)、小倉に京屋人形店開店
島津マネキン、蝋製マネキン制作
昭和3年
1930年 新たな写実主義の台頭('30年代の主流となる)
彫刻家の入念なデッサンに基づき、さまざまな人間を戯画化したマネキンを、ピェール・イマンが発表
島津マネキン、日本独自の素材と製法による、ファイバー製マネキン開発 昭和5年
1932年   島津マネキン、流れ作業による量産方式を採用 昭和7年
1933年   第1回島津マネキン新作発表展
東京の永徳斎がマネキン製品化に成功(大岡山に工場を開設)
京都に彩光マネキン創業
昭和8年
1934年   島津マネキン、1,400坪の敷地に600坪の工場建設
東京マネキン誕生
昭和9年
1935年   島津マネキン、ディスプレイ部門創設。店舗用什器開発 昭和10年
1937年 万国博で、オートクチュール・パビリオンを担当したエミール・アイヨーが、若き芸術家ロベール・クチュリエにマネキン制作を依頼。このテラコッタ風の荒削りな抽象マネキンに、批評家たちが熱狂。 島津マネキン、従業員200人、年間生産5,000体、国内市場の85%のシェアを占有。中国、旧満州、フィリピン、インド、アメリカ、ヨーロッパに輸出。
永徳斎、名古屋店開設
昭和12年
1938年   東亜マネキン、名古屋で創業 昭和13年
1939年 第二次世界大戦勃発
紙の供給が困難となり、全身石膏製のマネキン登場
パーマ禁止、「奢侈品等製造販売制限規則」公布 昭和14年
1940年 アメリカ市場からの注文ストップ
シェジェルはアトリエの半分を閉鎖
   
1941年   太平洋戦争勃発。島津マネキンは軍需工場に転換。
マネキン部も樹脂応用による船舶計量器を生産。
マネキンは国民服の普及、航空関係のテスト用に使用
昭和16年
1943年   島津マネキン、無念の休止となる 昭和18年
1945年 「モードの劇場」展開催。ジャン・サン・マルタンとエリアーヌ・ボナベルがマネキン制作。(アトリエを閉鎖する1967年まで「高級仕立て用マネキン」制作)