マネキンの全て

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マネキンのすべて

マネキンの数奇なる歴史

ヨーロッパからの流れ


可動人形/ラヴィーニュのボディ/衣装人形

等身大の人形が一般大衆の前に現われたのは、16世紀のヴェニスのカーニバルでした。フランスモードを着飾った美しい蝋人形が、ゴンドラに乗せられて登場したのです。衣裳を宣伝するためのドラマチックな舞台の主人公としての人形は、マネキンの本来の姿を表すものでした。

同じ16世紀にパリの宮廷や世界の有産階級にパリモードを届ける使者として、高さ30センチほどの人形が登場し、数世紀にわたって用いられましたが、その後モードデッサンに取って替えられ、消減しました。この衣裳人形といわれた小さな人形は、衣裳を着せて見せるという点で、マネキンの原型といってよいでしょう。

こうした流れを受けて、人々が最初に洋服を掛ける藤製の半身像を見たのは1750年です。これはあまりに軽くて安定性に欠けていたために、1830年には麻屑や皮などを詰め込んだものを、続いて1835年にはパリのブリキ屋が鋼鉄製のモデルを売り出しました。

ラヴィーニュからイマンへ 〜19世紀後半〜20世紀初頭〜


当時のパリのマネキン工房

裁断師として、とくに婦人乗馬服作りの偉大なスペシャリストであったプロフェッサー・ラヴィーニュは、完璧に近い上半身マネキンを開発しました。1849年の貿易産業博覧会に出品してメダルを獲得し、世界最初のマネキン会社「ラヴィーニュ商会」をパリに設立します。

当時のマネキンは、裾が広くて長いスカートを履かせるため、見えないとの理由から両足は不要とされたのですが、このスタイルはディスプレイ用ボディとして、今日でも根強く世界の市場に定着しています。

プロフェッサー・ラヴィーニュの弟子で、ベルギー生まれの若きアーチストであるフレッド・ストックマンは、それ以前の無機的なマネキンを生命感あふれるものに一変させた担い手でした。1869年に「ストックマン・フレール・ビュスト&マヌカン会社」をパリに設立し、国際的な大展覧会で次々と受賞しました。そして1878年以来、ロンドン、モスクワ、シカゴ、アムステルダム、ブリュッセル、ハノイなどの世界の都市で、大成功を収めます。

ストックマンのマネキンのあるものは自転車のペダルを踏んだり、ブランコに乗ったり、吊り輪ができました。下半身は固定でしたが、関節のある精巧な人さし指を持った、リアルさを備えていました。

オランダ出身のパリのアーチスト/ピエール・イマンは「解剖学的蝋製上半身像」を開発し、1900年のパリ万博で正真正銘の呼び物となりました。彼は一貫した蝋の使用により、マネキンの顔立ちを大いに改良し、エレガントな顔だけでなく、マネキンのいくつかを女優や政治家の顔にするなど、物見高い人々の関心を引くことを心得ていました。ピエール・イマンは、ストックマンとともにマネキンの工業化を推進した立役者でした。

こうした中で、20世紀初頭にはパリにマネキン会社が相次いで設立されました。

1911年、ピエール・イマンはトリノ博覧会でモードのパビリオンに、関節付きの腕を持ち完全に衣服の着脱が可能なマネキンを発表し、グランプリを獲得しました。このピエール・イマンの蝋製マネキンは当時の日本にも輸出されており、その名は戦前のマネキンを知る人々にとっては、後に登場するメゾン・シェジェルのマネキンと合わせて、馴染み深い存在です。

こうしてピエール・イマン等によって作られた20世紀初頭のパリのマネキンは、婦人のほかにも紳士、子供も作られました。紳士マネキンは男らしさの表現に重点が置かれ、毅然としていて感情をあらわにしないことをモットーとしていました。口ひげや顎ひげは流行を意識し、しかも品格を重んじました。当時の社交界における男のスタイルは、右手に帽子、左手にはステッキを持つことがルールであったため、マネキンもこうしたエチケットを尊重しなければなりませんでした。

一方、婦人マネキンは微笑んだ顔や氣嫌のいい顔が特徴であり、子供マネキンは屈託のない楽しげな表情でした。

素材と製法は、顔は蝋製、胴体など見えない部分は美しくなくてよいという理由から、キルティングや布で被われたボール紙製でした。しかし職人たちは布の絶妙なカットと仕立てにより、上半身のラインをほっそりと見せることに工夫を凝らしました。

頭部は今と同じように粘土で制作した後に石膏で型を取って雌型をつくり、その型に熱く溶かした蝋を流し込み、冷やして成型しました。仕上げた頭部には植毛師が人間の髪の毛を一本一本植えつけ、まつ毛も同様に植毛しました。さらに眼にはガラス製の義眼を、歯は義歯を装着。色別に並べられた義眼や大きさ別に分けられた義歯の入った箱が、毎週アトリエに届けられたのでした。

芸術家による抽象マネキンの登場 〜1920年代の様々な試み〜


裸の蝋製マネキン


20世紀初頭の紳士マネキン


パリの社交界をディスプレイしたウィンドー

第一次世界大戦が勃発した1914年(大正3年)から終結するまでの四年間に、女性の意識や服装を活動的にする変化が生じました。その頃、パリに存在したマネキン会社メゾン・シェジェルは、従業員100名を抱え、フランスモードを表現するマネキンを、日本を含む世界のいたるところへ輸出していました。

これらのマネキンは、大戦後の開放的な氣分を反影して、パリジェンヌの新しい顔、新しいシルエットを表現しました。蝋型製作者は、聖母の顔よりも快活で自然な女性を好むようになり、ポーズも多様化しました。

しかし蝋製マネキンは重量が100キロもあり、運んだり移動することに困難を極めたうえに、わずかの衝撃で指が折れたり、ショーウインドー内の照明などによる温度の上昇で蝋が溶け、しばしば微妙な修正を必要としました。

こうしたことから、不可避的に蝋の改良を図る必要が生じ、 1922年にピエール・イマンのアトリエで、蝋よりもっと軽くてしなやかで、肌のキメを完全に表現しうる“カルネジーヌ”という、大部分が石膏とゼラチンで作られた強固な素材が開発されました。このプラスチックの祖先ともいうべき素材は、主に手や腕の製造に用いられました。

同じ年、ギャラリー・ラファイエットの経営者ジェローム・ル・マレシャルは、ストックマン社の職人達に、生きたモデルをもとに彫刻するのではなく、売れっ子の芸術家たちのデッサンに基づいてマネキンを作るように依頼し、マネキンの制作に改革をもたらしました。

一級の素描家たちの上品な顔立ちを立体に移し変えることができる彫刻家を見つけるためのいくたびかの試みの後で、彼は才能豊かな若き芸術家ヤニ・パリを選びました。ヤニ・パリは力強く「面によって様式化」した斬新なスタイルのマネキンを作り、期待に応えました。

偉大な建築家マルステヴァンスは「ヤニ・パリは、ディテールと無駄な装飾の研究の中に迷い込まない。多分キメ粗いかもしれないが、しかし十分に表情豊かな人体である」と評しました。当時の人々は、当初はショーウインドーの前で困惑したり笑いだしたりしましたが、やがて慣れ、新しいスタイルのマネキン、リアルでないイメージを様式化した抽象マネキンを受け入れました。

こうした状況を、多彩な才能をもった芸術家アンドレ・ヴィニヨーは「自然を忠実にコピーすることから離れながら、マネキンはさらに生き生きしたものになる」と注目しました。こうして様式化されたマネキンは、急速に、時には抽象の限界ぎりぎりまで拡がりました。

シャッサングの簡潔で表現力豊かな木彫の立像、同じく1922年にルネ・エルブストは取り外し可能な腕と頭を備えた、単に一枚の板が切り抜かれたマネキンを考案しました。いわゆる「板マネキン」はこの時代に登場したのです。続いて鋼線や練鉄製の「線材マネキン」も作られ、マネキンは簡略化の極致に達しました。

一方、写実マネキンは、1924年に、画家たちのデッサンをアンドレ・ヴィニヨー等がマネキン化しました。これは半透明の蝋による、戦後の美しい女性を現代的で控え目な精神でみごとに表現したものでした。

アートとして評価されたマネキン 〜エポックとなった1925年〜


1920年代のウィンドー・ディスプレイ(パリ)


ルネール・ヘルプスト制作のマネキン(右)
ギャルソン風の様式化されたマネキン(左)

1925年は、パリで「現代装飾産業美術国際博覧会」別名“アール・デコ展”が開催された年です。世界中のすぐれた装飾家や装飾職人たちのこの祭典は、同時に自由な発想によるフォルムを様式化した、まったく新しいマネキン登場の場となりました。それは人体に近づくことによって完成の域に達していた、身振りを様式化したマネキンに強い衝撃を与えることとなりました。

フレッド・ストックマンと協定を結んだシェジェルは、この博覧会を目指して売れっ子の画家、百貨店の装飾家、現代建築家たちとチームを組みました。その芸術監督であったアンドレ・ヴィニヨーは、こうした多彩な才能を統括し、高価な衣服にふさわしいだけでなく、衣服を凌駕するかのようなマネキンの開発に成功したのです。

このマネキンの素材は蝋ではなく、空洞で軽く堅牢なカルトンが使われ、足の先から頭部まで成型され、加工されました。またマネキンの表面仕上げも、ラメの衣服には金粉や銀粉を付着させるなど、一貫した表現を試みました。

このようにして、キュービズムやシュールリアリズムなど当時の芸術運動から影響を受けながら、人間の単なる模倣からの脱却を図り、マネキンそれ自体を「装飾」と位置付けさせるまで到達させたのです。

1925年8月に発行された「ヴォーグ」誌は、当時のマネキンを次のように論評しています。「その時まで取るに足りない存在であったマネキンのアートは、最も完全な表現方法を見い出したのである。アーチストは“現代的なエレガントの複雑なパーソナリティー=豪華さと同時に活動的な人間”を、この上ない単純さによって想起させる芸術の新しいフォルムを発見したのである」

また「リラストラション」誌は、「マネキンたちはインテリジェンスと現代的な女性らしさを併せ持って作られている。芸術的な創作は、完全なコピーより真実に近いというのは本当である。 “彼女たち”は未来の社会にとって我々の時代の証であり続けるだろう」と論評しました。

このように1925年の「現代装飾産業美術国際博覧会」は、多くの批評家の関心を引き出しましたが、なかでもマネキンは美術批評家の注目の的となったのです。この展覧会の型にはまった装飾に批判的だったシュールリアリスト達も、新しい芸術分野としてマネキンの昇格を承認し、彼らの雑誌の表紙にマネキンの写真を掲載しました。

しかし、これほどまでに高い評価を得たマネキンでしたが、衣服に比べてあまりにも個性的でありすぎたため、市場では冷たく扱われて短命に終わりました。

その後のマネキンの流れをみると、リアルの対極に抽象あるいは半抽象として、スタイルは普遍化してきました。その意味で1925年は、ヨーロッパのマネキン史にとって画期的な年であるとともに、日本にとっても(後に述べるように)極めて重要な意味を持った年であったのです。

新たな写実主義の台頭 〜1930〜40年代〜


1920年代に登場した、抽象マネキン(板マネキンほか)


現代装飾産業美術国際博覧会に出品されたマネキン(右)
J.Pダルナと彼の制作したマネキン(左)

その後のパリでは、1930年代から1940年代にかけて、従来のエレガントなタイプとともに、新たな写実的傾向が台頭します。それは彫刻家の入念なデッサンをもとに、機知をもってさまざまな人物を戯画化したマネキンの登場でした。

禿げ頭でビール腹の男、ポマードてかてかでモミアゲの無作法な生意氣なパリの若者、老人、痩せた人、片眼鏡を持った貴族、スポーツマン等々、この10年間のマネキンはあらゆる肉体的なタイプのものを例外なく生み出しました。モデルは際限なく多様で、それは必ずしも理想の美しさを持った女性や男性に限らず、当時の有名人(例えば映画スターや芸術家、政治家)のマネキンも製作して、大衆の目を引きました。

さらにこの時代には、ドイツ、アメリカにおいてもマネキン製造は活況を呈し、ベルリン市内だけでも12の大きな業者が存在しました。

1937年に開催された万国博のオートクチュールのパビリオンを担当した建築家エミール・アイヨーは、若き彫刻家ロベール・クチュリエにマネキン制作を依頼します。ロベール・クチュリエはテラコッタに見せかけた素材で、ほっそりとした体つきと力強い手足を持った、まったく新しいシルエットのマネキンを創作します。

この目鼻がきちんと表現されていない上に荒削りな体のマネキンに、批評家たちは熱狂し、多くのジャーナリストは賞賛の記事を書きました。例えば「フェミナ」誌は「きゃしゃな上半身を備えた、背の高い痩せた彫像たちの、顔が表現されていないことが氣に入った。なぜならば彫刻家は、我々が思い思いに描く夢の顔立ちを与えることを望んだからだ」

このクチュリエのマネキンは、1938年にニューヨークで開催された「毛皮展」でも成功を納め、翌年春にランバンがフランスのオートクチュールのドレスを着せるために採用したことによって、評価は決定的となりました。そしてシェジェルはこれらのマネキンを販売することを決定し、アメリカはもとより日本にも輸出しました。

1939年9月、第二次世界大戦勃発。カルトン製のマネキン製造に必要不可欠な紙の供給が困難となり、全身石膏製のマネキンが登場します。さらに1940年代に入ると、アメリカ市場からの注文がほとんどストップし、シェジェルはアトリエの半分を閉鎖、マネキンから微笑みが消え、受難の時代へと突入します。

再び活性化するマネキン 〜戦後のヨーロッパ〜


目鼻がきちんと表現されていない華奢な身体のマネキン


有名人を模したマネキン(右)
ツィギーのマネキン(左)

第二次世界大戦の終結とともに、パリのアトリエにも再び活氣が甦り、アメリカへの輸出も再開されます。マネキンの素材も戦時中の石膏に加えて、戦前の強固で光沢のあるカルトンが用いられます。やがてクリスチャン・ディオールはウエスト53センチのニュールックを発表。このウエストがくびれたボディラインは、その後のマネキンに影響をもたらします。

1945年の「モードの劇場」展で小さなマネキンを作り出したジャン・サン・マルタンとエリアーヌ・ボナベル達は、量産によるマネキンの画一化とグラスファイバー化を拒否し、パリのアトリエを閉鎖する1967年まで「高級仕立服用マネキン」の制作に努めます。

パリで最初にプラスチックによるマネキンに取り組んだのは、大量のマネキン展開を意図したチェーン店の若き所有者モーリー・ウォルフと、開発に協力したデヴィット・ヴィスだとされています。開発当初は樹脂の緑がかった色が表面に浮かび上がり、回収を余儀なくされますが、引き続き研究を重ねて、プラスチックを素材としたマネキンの開発に成功します。

パリ在住の彫刻家でマネキン作家であるジャン・ピエール・ダルナは、1947年に最初のマネキンを創作。最後のマネキンとなった1986年発表の作まで40年近くにわたって、自分自身の女性に対する美意識に裏付けられたマネキン作りを続け、その作品は今日でもパリや日本の商空間で健在ぶりを示しています。

1960年代に入り、ロンドンに「アデル・ルーツスタイン」が新しい社会現象を背景に登場しました。とくに1966年のコレクションで出したミニスカートの女王ツゥイギーと、裸足の歌手サンディ・ショーをモデルにしたマネキンは、これまでのエレガンスタイプのマネキンに見られなかった衝撃的なインパクトを持ったマネキンで、アデル・ルーツスタインの名を広く世に知らしめるきっかけとなりました。

アデルに引き続き、ヨーロッパやアメリカに次々とマネキン会社が誕生し、FRP製の多様なマネキンが世界的な規模で急速な拡がりを見せますが、その一方でマネキンを誕生させたフランスでは、第二次世界大戦以降はダルナ以外に特に目立った作家は登場していません。有名なストックマン&シェジェル社は現在でもパリに存在していますが、ポリエステルを素材としないクオリティの高い縫製用ボディを中心に製造販売しています。

では、現在のパリにマネキンが存在していないかといえば、そうではありません。外国製も含めて多様なマネキンが使われています。しかしその多くが服を売るためのサンプル陳列の道具にすぎず、日本やアメリカその他で展開されているような、ファッショナブルでドラマティックなディスプレイを展開している例は、ほんの僅かにすぎません。かつての栄光がまるで幻影のようです。

しかし、イタリア、ドイツ、イギリス、スイス等ヨーロッパ全体を見るならば、マネキンは盛んで、日本との交流はむしろ活発に展開されてきたといえます。