≪ 戻る | 目次 | 次へ ≫ |
建築ほどに、そのサイクルは長くはないけれど、ファッション衣料のように、めまぐるしい変化をみせるわけではない。5年、10年、といったサイクルのなかで人々の呼吸を、時代の空気を映して、人間に代わって、店頭に佇み、売り場を飾り、夢や憧れを具現化して訴求してきたマネキン人形たち。その歴史は、人々の心象の歴史でもある。
復興から高度成長へ。「衣料切符制」の解除を契機に、経済環境が向上する社会のなかで近代化・西洋化を邁進。
'50年代後半のイージー・オーダーの隆盛でマネキン人形の需要が急増。戦前に開発された技法、美的価値観を基本としながらも黄金時代前期を迎える。
ファイバー素材、日本的美人像を表現ベースに。復興から黄金時代へ。
1959年秋に発表された紳士マネキン
長年の思想・物資の統制が解除され、戦後の混乱、窮乏生活から脱した1950年代は、一応の「食の充実」を満たし、人々の欲求が「衣の充実」に向かってスタートしたとき。
1938年の「綿布の統制」にはじまり生活物資が次々に統制され、太平洋戦争が開始した翌42年には「衣料・点数切符制」が実施された。その制度が解除され、繊維製品が自由化されたのが、1950年。人々は「衣生活の充実」を求めて走り出し、"糸へん景気"がスタートした。
この景気に拍車をかけたのが同年に始まった"朝鮮戦争"の影響を受けた「特需景気」であり、3種の神器(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)の普及を要因とする「神武景気」。
豊かな占領国アメリカは、人々の憧れの的であり、思想からライフスタイルまで多大な影響を及ぼし急速に浸透。あらゆる産業、文化をはじめとして、人々は近代化・西洋化に向かって邁進した。
経済復興から高度成長へと社会環境の変貌するなかで、もう1つ特筆すべきことは、敗戦・占領下のなかで女性に自由と権利が与えられたことがある。
田中千代、杉野芳子など戦前に産声を上げていた洋裁学校が復興。
戦時下で価値観を変え、制度的にも解放された女性達は大挙して洋裁を学びはじめ、洋裁学校の普及・繁栄をもたらした。ちなみに50年前後にみる全国の洋裁学校数は3000校を越え、生徒数も30万人を数えたといわれる。
そこに学んだ多くの女性達は「芸は身を助ける」といった戦前の価値観を内在していたことは否めない。
しかし、これらの女性達が、やがて「街の洋装店」の繁栄を担い、日本のファッション化基盤をつくり、起動力の一翼を担ったと言っても過言ではないだろう。
1955年、イージー・オーダー全盛時代の婦人服売り場/写真提供 三越
一方、長年抑圧されてきた文化活動も廃墟のなかで急速に活発化。
1948年には、わが国初のデザイナーズクラブ(NDC)が産声をあげ、翌1949年には、まがりなりにも日劇で第1回のファッション・ショーを開催。
1951年に、初のプロ・モデルが誕生し、翌1952年にはモデル・クラブが創設された。この時のモデルのひとりが伊東絹子で、1953年の「ミス・ユニバース・コンテスト」日本代表で堂々第三位入賞。「八等身美人」の流行語を生んだ。
また1950年を境にして、海外のファッション雑誌が店頭に登場。国産のファッション誌も相次いで創刊されるなど、ファッション化の基盤は急速に整えられていった。
1947年に発表されたC・ディオールのファッション。
1987年にパリで開催された《C・D回顧展》より
/写真提供 C・ディオール日本代表事務所
戦後における女性達の洋装化の手本は、占領下では駐留するアメリカ将校婦人などの装いであった。しかし、社会の落ち着きと共にヨーロッパに目が向けられて行く。
豊かな国アメリカ中流家庭のライフスタイルを手本にしたものと、クリスチャン・ディオールに代表されるパリ・オートクチュールという二つの流れは、主に当時爆発的人気の映画を媒体として人々に影響を与えた。
特に1947年に"花冠ライン"でデビューしたC・ディオールの作品は「ニュールック」として世界の女性を魅了。アルファベット・ラインなど相次ぐニューラインが亡くなる1957年まで世界を席巻。一世を風靡してパリ・オートクチュールの権威を世界に再認識させた。
その他、故ココ・シャネルも人気デザイナーのひとり。そして戦後デビユーした新星デザイナーたちを加えたパリ・ファッションは、主として映画を通して、わが国の女性ファッションに多大な影響を与えた。欧米で戦前に封切られた映画も相次いで紹介された。
「哀愁」のヴィヴィアン・リーのレイン・コート、「イヴの総て」に登場したロー・ネックとサーキュラー・スカートのドレス、「終着駅」でのジェニファー・ジョーンズのグレイのスーツなど。グレイス・ケリーの装いも世代を問わず女性達の憧れの的となった。
そして、新しい時代の訪れを示唆して、ファッションとして人気を得たのが"ミッチー・ブーム"。現皇后様である美智子さまが一般から選ばれたことから、尊敬と親しみ、憧れをいだく女性たちが"テニス・ルック"をはじめ美智子さまの装いを真似たことから生まれたもので、1950年代末を飾った。
右:1951年に制作されたマネキン/吉村勲 作
中:1952年に制作されたマネキン/村井次郎 作
左:1952年に制作されたマネキン/向井良吉 作
マネキン業界も戦争色が濃厚になったことで1940年には金髪禁止。許されたのは国民服やモンペ姿のマネキンのみ。しかし、それすらも「贅沢禁止令」で製造禁止となり、発展途上にあったマネキン業界は中断を余儀なくされてきた。それだけに、戦後の立ち上がりは素早かった。
1950年代も後半に入ると、ミレーヌ・ドモンジョやパスカル・プッチなどスクリーンでの人気女優にイメージを求めたものをはじめ、髪形やメーキャップなどに映画の影響がみられたが、1950年代を通じて主流となった表現は、原型作家各々の個人的な美意識によるもので、多くは美人画などに見られる日本的な女性美を基調にしたものであった。
そして、マネキンのプロポーションは、ふっくらした胸元、50センチ前後という極端に細いウエストを持ったもので、ポーズも慎ましやかな、優美さを基調にしたものであった。
手作りでの洋装化からスタートした「衣生活の充実」も高度化して、1950年代後半は百貨店の「イージー・オーダー」が隆盛を見せていく。見本服を展示するためにはマネキン人形が不可欠。婦人服のフロアには数十体、多いところでは数百体ものマネキン人形が林立した。
ファイバー素材によるマネキン人形による第一次発展期であり、前期黄金時代を迎える。
≪ 戻る | 目次 | 次へ ≫ |