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経済の高度成長背景に、生活レベルまで急進したテクノロジー。戦後生まれの新世代の台頭で大きく変革した1960年代。
マネキン業界も画期的なFRP素材の導入、"ダルナ・マネキン"に代表される新感覚の表現を基調に、黄金時代後期を迎え、業容拡大の途に。
新素材FRPマネキンの開発と普及
人体サイズに近づき、ダイナミックなポーズに。
1962年秋の「銀座松屋」のウィンドー・ディスプレイ
「神武景気」に続く「岩戸景気」。高度成長の真っ只中で迎えた1960年代は、1950年代末に芽を出した近代科学技術が急速に発展して生活レベルにまで波及していった。
1957年ソ連の打ち上げた人工衛星スプートニク号に始まった宇宙ブーム。大は宇宙開発があり、新幹線"こだま"の運転開始が1958年。日常レベルでは、東京オリンピック開催を契機に急速に普及した3C(カラーテレビ、クーラー、カー)がある。
マネキン業界においても、かねてから各社各様に新素材を求めた研究が重ねられていたが、1957年にFRP(ガラス繊維強化プラスチック)素材を開発させ、マネキンの実用化に成功する。
衣料需要の高度化の進展でイージー・オーダー売り場は拡大するばかり。急増するマネキンの需要に対応するために「量」と「質」、両面での活路の開発を業界は余儀なくされていた。
需要が急増したことで導入されたのが、わが国独自のシステム「マネキンの長期貸し」、いわゆる「レンタル・システム」であり、マネキンの一体の販売価格が高価なこともあって急速に普及していった。
1959年にデビューした"ダルナ・マネキン"
慎ましやかな日本的美人像を基調にしていたマネキン作家たちに、衝撃的ともいえる感動を呼び起こし、その後のマネキンの表現に多大な影響を与え、方向を決定づけたともいわれるのが「ダルナ・マネキン」。
1958年に七彩が仏・パリのマネキン作家ジャン・ピエール・ダルナ氏を招聘して、共同で開発。市場に送り出したもので、パリのエスプリを漂わせ、ダイナミックで伸びやかなエレガンスな雰囲気を持つ「ダルナ・マネキン」は、西洋化、ファッション化が進行する社会のなかで圧倒的な人気を得て、1980年代半ばまで活躍した。
右:1950年代末に封切られたA・ヘップバーン主演の映画「パリの恋人」より/「ハリウッド衣装展」にて=取材協力(財)ファッション振興財団
左:1950年代後半から1960年代前半のファッション・リーダー“オードリー・ヘップバーン”のプロフィール。
「麗しのサブリナ」より。
1960年代の社会を語る特徴的な二つ目の要因は、戦後に生まれたベビーブーム世代が、成人を迎えて大挙して社会に参加し始めたことがある。
その人口比率の高さと相俟って、若い女性の就業率を高め既製服の需要を急増させるなど、産業形態、ライフスタイル、ファッションを大きく変容させ、特に'60年代後半に入って、その傾向を顕著にする。
1955年に大丸がC・ディオールと契約を結んだ(後に鐘紡と提携)のを皮切りに、1950年代後半に入ると百貨店は相次いでパリ・オートクチュール・デザイナーと契約。
しかし、大衆的にはスクリーン・ファッションが、1960年代前半を通じて相変わらずの人気を得ていた。1960年代前半を代表するファッション・リーダーの一人としては、オードリー・ヘップバーンがいる。「ローマの休日」や「麗しのサブリナ」など1950年代後半に話題を呼び、後にユベール・ド・ジバンシーの作品を着て、しぐさも含めてその妖精のような魅力で若い女性達を魅了した。
しかし、映画でいえば1950年代のものが戦前のものをはじめ古典的な美意識やロマンを基調にしていたのに比べて、1960年代に入ると「ウエストサイド物語」や「勝手にしやがれ」「太陽がいっぱい」「甘い生活」など、若者の叫びやヌーベルバーグと称されるものがヒット。わが国では1960年代後半に入って、これら映画が影響したファッションがアチコチで芽生え始めるが、本格的な導入は、1970年代に入ってからとなる。
そして1960年代後半のファッションといえば「ミニ・ルック」。代表するのは「ミニ・スカートの女王」といわれ、"小枝のような"という意味をもつファッションモデル・ツィギーだ。
ヨーロッパも1960年代を迎えると、消費構造の変化に対応してプレタポルテ(既製服)が盛んになっていく。そして1965年には、イギリスのデザイナー"マリー・クワント"により創作された「ミニ・ルック」をクレージュがパリ・コレクションの舞台に引き出したことによって、一挙に"ミニ流行"に火がついた。日本にも少し遅れて1966年ごろから「ミニ」が登場した。
この「ミニ・ルック」の登場は、ファッション世代のリーダーをヤングに交替させ、大衆ファッションの幕開けを象徴した。
右:1964年に発表された、抽象的な表現を取り入れてファニーなイメージで制作されたマネキン
左:1968年に発表された、“ツィギー”をイメージしたマネキン
かつてタブーとされてきた"ひざ頭"を解放したファッションの登場は、マネキンの表現を革新させ、ひざ小僧をリアルにしたマネキンを生み出した。
東レなどの繊維メーカーがリーダーシップをとり、既製服産業が台頭する市場の中で、マネキン人形も、標準サイズ既製服を着るマネキンが要請されるようになり、次第に人間に近いプロポーションの表現がされはじめていた。
その傾向を決定的にしたのが「ミニ・ルック」であった。1968年ころから各社が相次いで発表したツィギーをイメージしたマネキンは、ボディの細さに比べてウエストが太くなった。それ以前は50センチ前後であったウエストサイズは、実際の人間に近いリアリティ表現がされるようになった。
既製服時代の到来、クレージュ旋風に続いて発表されたカルダンの宇宙ブームをイメージした"コスモ・ルック"など、ミニマムでモダンなファッションの流行は、マネキンの表現を大きく革新した。
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