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高度成長の余韻のなかで幕を明けた1970年代。しかし、第一次オイルショックを契機に公害をはじめとする社会の矛盾、問題が噴出。
時代は大きな変革期を迎える。マネキン業界は需要が急減する「冬の時代」のなかで、新時代に対応するマネキンを模索。個性化の途を歩みはじめる。
ライフスタイル、消費構造の変革のなかで新しい提案を模索。個性化の途へ。
エスニックな衣装を纏った“アデル”のマネキン/1973年6月展より
カーリー・ヘアでロンゲット・ファッションを装う1970年代初頭のマネキン
「ミニ」登場が意味するもう1つの側面は、カジュアルな装いがファッションとして市民権を得て、街がファッションの発信地になったことだ。ミニ・スカートそのものがロンドンのカーナビー・ストリート界隈の若い女性達が着始めたものであり、英国のデザイナー"マリー・クワント"、そしてクレージュを介してファッションとして登場した経緯からも推測されることである。
1950年代のアメリカに登場したロック歌手プレスリーに代表されるビート・ゼネレーション(打ちひしがれた世代)に端を発し、その延長上に派生した体制に反発する若者のライフスタイルから生まれた装いは、様々な流れとなって、欧米では1960年代を通じて大きな勢力となり、1968年にフランスで起こった「五月革命」がファッションの変革を決定的にしたという。
わが国でも1960年代後半に入って登場したモッズ・ルックやビートルズの影響を受けて、1970年前後には「ピーコック革命」として、メンズ・ファッションにも大きな影響を与えている。
一方、1966年米国・サンフランシスコに生まれた「フラワー・チルドレン」から発展したヒッピー・ファッションやサイケデリック・ファッションなどが1973年のオイル・ショックを契機に一挙に勢力を拡大して一般化。自然回帰を求める社会の中で、フォークロア、ビッグ・ファッション、レイアード・ルックへと、次々に新しいファッションを送り出して、目まぐるしい変化を見せて行く。
こうした流れをさらに決定的にしたのが1970年代初期に、新世代のライフスタイル、消費動向をとらえて創刊された。"アン・アン"や、"ノン・ノ"といった雑誌が果たした役割も大きい。
オートクチュールからプレタポルテの時代へと転換したパリ・ファッションだけではなく、ストリートの若者達の装い、そしてビートルズに代表されるロカビリーやポップ・ミュージックのアイドル達の装いなど、ファッションの発信源は多元化した。
右:ヒトガタを抽象化したような板マネキンが人気を高めた。
左:カジュアル・ファッションが主流となり、“重ね着ルッグ”を装うマネキン
ミニの登場、ジーンズやTシャツに代表されるカジュアルなファッションの浸透・拡大は、ミニマムなモダン・ファッションの登場以来、縮小傾向にあったマネキンの需要を急速に減少させた。
かつてイージー・オーダーの時代に、百貨店の売り場に林立したマネキンは、代表的なサンプルを着せるだけとなり、什器などが増え、マネキンが減少した。
また既製服の充実、Tシャツやジーンズの流行は、かつての「街の洋装店」を衰退させ、新世代の経営する「ブティック」が登場。街の表情も一変して、ここでもマネキン人形は急減した。
需要が急減するなかで、各社とも新しい時代に対応するマネキンを模索していたが、1971年に七彩が「人体を生体のまま型取る技法(FCR)」に成功。1974年に スーパー・リアル・マネキン「パル」として商品化し、市場に送り出した。このFCRマネキンの登場は、市場のマネキン離れに歯止めをかけると同時に、より人間に近いイメージとボディ・サイズを持った「リアル・マネキン」を生み出す契機となった。その後、マネキンは既製服に対応した表現に改良されて、再び浮上へと向かう。
一方、この時代に活躍したのが「板マネキン」に代表される人間を抽象化した展示器具など、軽快な展示方法が人気を得た。
同時に、サイズ展開の必要性からハンガーでの陳列が大勢を占めるようになった既製服売り場に対応するために、ハンガー・ラックをはじめとしたシンプルな什器の開発が積極的に進められるようになった。
右:アフリカの原野を駆ける動物のような躍動感をイメージしたマネキン/1970年発表
左:ボディ・ペインティングが流行した、1970年代のメーキャップ
1970年代を迎えると、パリも新星プレタポルテ・デザイナー達のデビューが相次ぐ。
わが国からも高田賢三がパリで「JAP」を設立したのが1970年。続いて三宅一生、山本寛斎がパリ・コレに参加。いまや世界のベテラン・デザイナーとして活躍しているテイエリー・ミュグレー、クロード・モンタナ、カール・ラガーフェルドなどがデビューしたのも1970年代前半のこと。
世界のデザイナーがパリ・コレに参加する一方で、ファッションの発信地はミラノ、ロンドン、ニューヨークと多国籍化していった。
パリをはじめとした新星デザイナーの相次ぐデビューは、百貨店をはじめ力を持ち始めたアパレル産業が海外デザイナーと提携。1970年代後半には、パリに続いてミラノ、ニューヨークのデザイナーとの提携が進む。
ファッションの国際化が顕著になる背景の中で、業界は海外マネキン導入の傾向を顕著にする。
ライフスタイル提案型ディスプレイで活躍するスーパー・リアル・マネキン/1975年の東京・池袋西武の食品売り場
1970年代後半に入ると「タンス在庫は一杯」といわれ、衣料品市場の成熟化が浮き彫りにされ、ファッションの概念は、生活全体に拡大される。欧米の一流ブランドのバッグなどが注目を集め、ゴルフをはじめとしたスポーツ熱が高まり、スニーカー、ポロシャツなどのスポーツ衣料品がファッション化して街に登場するなどの現象が目立った。
こうした戦後世代の市場参加による消費構造の変化に対応したマーチャンダイジングがされ、売り場も新世代に向けた生活提案型のビジュアル展開が求められた。
新宿・伊勢丹がアメリカから導入したマーチャンダイズ・プレゼンテーションに則った売り場のリモデルを実施したのが契機となって、百貨店を中心にしたリニューアルが全国に波及していく。この中で、マネキンは、ファッション・ステートメントを訴求するビジュアル・プレゼンテーション(VP)の主要素材に位置付けられ、衣料品売り場だけではなく、家具や食料品売り場などにも使用されるようになって、新たな表現を伴って個性化の途をたどりはじめた。
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