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ファインアートとコマーシャルアートの一体化を目指して
建畠覚造(たてはた・かくぞう) | |
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1919年(大正8年) | 4月 東京生まれ |
1941年(昭和16年) | 東京美術学校彫刻科卒業 同年、在学中に文展特選。 以後、1941、42年直土会賞、43年野間賞 |
1950年(昭和25年) | 行動美術協会彫刻部創立 |
1951年(昭和26年) | (株)永徳斎マネキンに原型作家として入社。 |
1955年(昭和30年) | (株)アルス工芸創立に取締役として参画。 |
1958年(昭和33年) | 東京マネキン(株)技術顧問。多摩美術大学彫刻科教授。 |
1962年(昭和37年) | (株)ローザ工芸創立に、専務取締役として参画。 |
1966年(昭和41年) | 国立近代美術館賞 以後、高村光太郎賞ほか受賞多数。 |
1990年(平成2年) | 芸術選奨文部大臣賞 |
現在 | (株)ローザ取締役相談役 行動美術協会会員、日本美術家連盟会員、 日本建築美術工芸協会会員ほか。 |
昭和16年東京美術学校彫刻部(現在の東京芸術大学美術学部)を卒業して以来、彫刻家としての活動を続けていた建畠覚造は、第二次世界大戦終了間もない混乱期の昭和26年、(株)永徳斎マネキンに原型作家として入社し、マネキンの世界に足を踏み入れた。日本における洋装の大衆化はこの頃から本格化しており、時代の息吹きを敏感にキャッチしたのかもしれない。
建畠は同社に在籍した四年間に、当時の関東地区を代表するマネキン原型作家として活躍し、多くのヒットマネキンを制作。昭和28〜30年の三年間、フランスに留学、戦後の前衛的な芸術運動の中心に身を置いて、抽象彫刻作家として実力を確立するとともに、ファッションの都パリを中心に、ヨーロッパのマネキンの特質、店舖空間ディスプレイを研究、帰国後のマネキンの制作に生かして、高い評価を受けた。
昭和30年、(株)アルス工芸の創立に取締役として参加し、当時の日本のマネキン業界では皆無にちかかった抽象的な表現によるマネキンを発表するなど、現(株)アルスの基礎をつくる企業発展に大きく貢献した。
「CLOUD-4」1981年作
中原悌二郎賞(1981年)/材料、ジュラルミン H92cm W70cm D120cm
すでに日本の抽象彫刻界のホープとなっていた建畠は、昭和33年アルス工芸を退社して東京マネキン(株)(現(株)トーマネ)のマネキン技術顧問として就任。一方で多摩美術大学彫刻科教授として後進の教育にカを入れるとともに、昭和37年までの在職四年間に、社内に多くの優秀な原型作家を育成した。もちろん、その間の自らの創作活動も活発に行い、数々の秀作を発表し、注目されてきた。
昭和37年、(株)ローザの創業に際しては専務取締役として参画。平成6年に専務を退いて相談役として現在に至っているが、この間、建畠は原型作家として、また抽象彫刻家として、第一線で活躍し、後任の育成につとめ、そして現在も活躍中である。
抽象彫刻家として55年、前衛的なマネキン原型作家として44年、その活動は現在も進行中だが、美術家の感性によって、商業施設や商業空間に、ファインアート感覚のマネキンを持ち込み、コマーシャルアートと一体化させた業績は大きい。売場演出は消費者への生活提案の場でもあり、建畠は常に生活環境にアートの要素を導入したいと願っていたのだ。
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