マネキンの全て

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マネキンのすべて

日本のマネキン 〜人と作品〜

名人伝/異色の番外編

横河 暁 YOKAWA Satoru

アートディレクターとして、個性の強いマネキンをヒット

マネキン人形の原型作家といえば、彫刻を中心とした美術系の人材が普通である。ところが高校の普通科を卒業して営業担当として入社しながら、一時期アートディレクターとして次々とヒットマネキンを発表した人物がいる。(株)ヤマトマネキンにいた横河暁だ。

横河は昭和28年10月に静岡市で生まれて、地元の私立橘高校を卒業、他社へ就職した後の昭和49年6月、ヤマトマネキンの静岡出張所に、営業として中途入社した。ファッションとマネキンに異常な興味を示して、社内の原型作家の作品にいちいち注文をつけた。気は優しく得意先にはファンも多かったが、妥協しない強烈な個性の持ち主であった。

横河はイメージやストーリーを大切にし、インパクトのある個性の強いマネキンの制作を主張した。その主張にトップが押しきられてマネキンづくりにトライさせたところ、それがヒットして、昭和58年からアートディレクターとしてマネキン開発を担当させ、次々とヒットマネキンを生み出した。

横河自身は原型を創る技術がないから、原型作家に自分のイメージ通りのマネキンを作らせるのに苦労した。いろいろ葛藤があったようだが、彼はカタログにも独自の工夫をこらして、自分の主張をつらぬき、数々のヒットを出したのだ。そして平成5年、ヤマトマネキンを退社して、どこかへ消えた。

岡田 某 OKADA

正体不明の仕事師が残した作品が現在も和装売場に立っている

昭和28年頃から五年間ほど、(株)彩ユニオンに岡田という年齢50歳ぐらいの年配の和装マネキン原型作家が居た。やや細身で性格に明るさがなく、仕事に取り掛かると周囲のことは一切気にしない、一風変わった職人肌の男であったが、腕は確かであった。

ある日、誰かの紹介でふらりと訪れて、当然のようにして仕事場に閉じ込もり他人の出入りをシャットアウトして、桐材を彫ることから途中の仕上げ、最後の彩色まで一人でこつこつと気に入るまで仕事をしていた。とくに胡粉を塗る仕上げでは拘りが強く、一体の彩色だけで一日掛かることも間々あった。

出来上りは艶のある美しい肌で、他人に真似のできない人形師の面目躍如たる作品であった。能面を彫ったこともあるという噂があり、人形の顔は彫りの深い、ひとか目で、額が広い理知的で整った風貌である。人形の名も「岡女」として、現在でも同社の和装マネキンの重要な柱となっている。

岡田は来た時と同じように、五年後にふらりと出ていって、その後の便りはまったくない。誰が紹介者だったかも定かでないこの男は、今どこで何をしているのか、もう故人となっているのか、存命なのか。本人の名前も不明で、顔写真も残されていないが、作品の「岡女」は今日も健在で、彩ユニオンの和装マネキンの25%を占めているのだ。