マネキンの全て

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マネキンのすべて

日本のマネキン 〜人と作品〜

日本のマネキン史の中で、現在に至るまで多くのマネキンが生まれ、歴史の中に埋もれていった。マネキンは常にファッションを支える“旬”のものであるから、美しいメイクと服を身にまとい、売場に立つ時がもっとも輝く瞬間といえる。ここで紹介するのは、そのようなマネキンが売場に立つまでの、制作経過の記録である。

有楽町西武“パリ祭”の核イベント「高田賢三展」

西武百貨店の“パリ祭”企画のメインイベントとして行われた「高田賢三展」
―人形の企画・デザインは四谷シモン氏が、そして制作・製造をトーマネが担当した。

四谷シモン氏の可動式人形をマネキンとして制作する


「高田賢三展」のポスター

高田賢三といえば、パリを舞台に世界で活躍している日本人トップデザイナーとして有名である。有楽町西武では“パリ祭”を開催するに際して、核になる催事としてケンゾーを取り上げ、ケンゾーを通してパリモードの今日的な動きを表現しようと意図した。着こなし上手なパリ人の、自由で解放的な風土から生まれる、自分流生活感のあるスタイルから、本物のおしゃれを学ぼうというユニークな企画であった。

使用するマネキンについての発想もユニークであった。四谷シモン氏がデザインした全身可動式の人形を、等身大に制作するというもので、卜ーマネとしては可動式マネキンをそれまで研究した経験がなく、所有してもいない。まったくゼロからのスタートとなったのである。

小さな人形の世界では常識的なことも、等身大のマネキンとなるといろいろ研究課題が出てくる。重量が加わった上で自立させられるか、衣服の着脱が可能か、決められたポーズを維持できるか、組み立てが可能か、そのほか満たさねばならない条件が多い。これら機能面の研究を限られた時間内でいかにクリアーするか たいへんな苦労であった。

機能の完成と原形制作に六ヵ月が費やされた

左)人形の構造と寸法(指定)
右)完成した原型(粘土)

マネキン本体の原型制作は、四谷シモン氏も加わって同時進行させた。こちらも既製のパーツは利用できず、四谷氏の求めるシビアな完成度を満たすべく、義眼、かつら、手先など、技術と感性のすべてを注いで、新規に制作した。しかも原型の進行に際してはパリのケンゾー社のチェックも受けねばならず、指摘された疑問点への回答、修正個所の確認など、緻密な連携が欠かせなかった。

とくに苦労したのは人形の肌のマネキンへの再現であった。クラフト的な味わいのマチエールと肌色を出すのはたいへんだった。しかも最終の目標であるファンタジーの世界、近未来の世界を感じさせなければならない。

機能の完成と原型の制作に六ヵ月が費やされ、どうにか高田・四谷両氏の望みにかなった作品が出来上った。

 

完成したマネキン

左)ヘアーの試作
右)完成した頭部

しかし残り少なくなった期間の中で、約100体のマネキンを生産しなければならないし、最終的な意匠の決定もこれからだった。理論的には完成している機能も、実際に現場で使用してみるまでは不安が残った。すべてが未知の体験であった。

パリの生活・パリの香りをファンタジックに演出

上から
・衣裳合せ
・会場でのディスプレイ作業
・会場での展示シーン
・会場での展示シーン

上から
・パリでの撮影風景(画集用)
・楽しそうな高田賢三氏(パリでの撮影時)
・展示会場のレイアウト図

パブリシティや写真集出版のために、立ちポーズ三体と座りポーズ三体をパリの撮影スタジオに持ち込んだ時は、満足感が心の底から込みあげてきた。自然光を取り入れたスタジオは明るくさわやかで、高田氏をはじめ女性フォトグラファーのマリアンヌ・シュメトフさん、そのほか数名のスタッフの顔がフレッシュであった。

そして「高田賢三展」は1989年9月1日(金)から12日(火)まで、有楽町アート・フォーラム(有楽町西武B館四階)で華やかに開催された。

約100体の苦心作のマネキンたちは、江古田の西武配送センターに集めて、衣裳合わせと展示会のシュミレーションをしたうえで搬入され、劇場仕立ての会場を盛り上げた。
組み上げられた鉄のエッフェル塔、パリのデコレーターが描いたパリの街の壁や階段、椅子やアコーディオンの中で、さまざまなケンゾーの衣裳を着飾ったマネキンたちが、それぞれポーズをつくり、パリの生活とパリの香りを、ファンタジックに演出した。

●スタッフ=アートディレクション・安斎敦子/スタイリスト・山崎夏子/人形デザイン・四谷シモン/音楽・桑原茂一/照明・生方博史/プロデューサー・増井和子/マネキン制作・(株)トーマネ

展示のシュミレーション

「賢三画集」より

「賢三画集」より